エークリッドトライアングル

追記からどうぞ

　いやな空気だ、と俺はマスクの下で僅かに舌を出した。米神に青筋を浮かせているキッドを止めるべきか、それとも欠伸なんてして呑気にしているトラファルガー・ローを斬りにいくべきか。決めあぐねてもう一時間になる。最初は固唾を呑んで見守っていた街の住人たちも、こっそりと俺たちの横を通行していった（たまにキッドが舌を鳴らすせいで、情けない悲鳴を上げる奴もいた）。そういえば、一人の子供がトラファルガーの足元に近づこうとしたときは、一瞬こちらがひやりとしたものだ。母親の弱々しい制止を聞かずにやってきた子供を、トラファルガーはちらりとみた。子供は無垢な目でやつを見上げる。やつは僅かに口角を上げると、「あっちいってろ」、と一言言った。俺は知っている、あれは俗にいう「営業スマイル」とかいうやつだ。無意識かどうかはわからないが。やつの目は全く笑っていない。そんな偽の笑顔を向けられた子供は、たちまち大きな瞳から涙をこぼし、母親のもとへと逃げ帰った。それを見て、たっぷり首をかしげたトラファルガーという男だが、本当によくわからない人間だ。

「で、だ。お二人さん、仲良くお散歩してるとこ悪いが、俺もあんまり時間がないんだ。どいてくれ」
「……てめえ、開口一番にいうことがそれか。良い根性してるじゃねえか。
　大体、お前は部下も引き連れねえで買い出しか？　さみしい男だな」
「人手不足なんだ、仕方ねえんだよ。全員で散らばらないと効率が悪い」
「ふん、人望がねえだけだろう」
「そりゃあどうも。弱ェのをぞろぞろ引き連れるより、強ェのを数人入れとく方が頼りになるからな」
「喧嘩売ってんのか、てめえは…！」
「買ってくれるのか？」

　ああ、キッドの堪忍袋がはち切れんばかりに膨れ上がっているのが目に見えるようだ。キッドを苛立たせる言葉を的確に当てて、トラファルガーは高値の喧嘩を吹っ掛ける。値切るなんてことをしらないキッドは、言い値でそれを買い取ろうとする。俺はどう二人を止めようか、はたまたキッドに加勢すべきか思案した。しかしここで
キッドに加勢しては、トラファルガーの思うつぼではないだろうか。俺はこっそり溜息をついた。その間にも、凄絶な嫌味と悪態の応酬は続いていく。周囲の温度は急激に低下し、逆にキッドの頭にだけがんがんと血が昇って、そのうち沸騰してしまうんじゃないだろうか。最早雲が発生しそうな温度差が生まれていた。
　人の神経を逆なでするのが途方もなく上手い男だ。しかもおそらく、本人はほとんど無自覚だろう。むしろ癖になってしまっているのかもしれない。だとしたらとんでもない悪癖だが。もし今までのすべての会話が意図的な嫌味だとしたら、相当に頭の回転が速い男だ。他人の気に障ることを、まるで暗唱文のようにすらすらと唱えて見せるのだから、並の神経ではない。鉄でできた心臓に毛が生えている。
　キッドはどうだろうか。あいつは喧嘩を売るのは得意だが、こと買う立場になるととことん弱い。沸点が低いからだろうか、すぐ殴りかかってしまうのがよくない。手を出した方が負けということもある。大概相手が白旗を振るまで徹底的にやるから、ある種丸く収まっているのだが、今回のことは少し分が悪い。完全にトラファルガーのペースに乗せられてしまっている。

「………キッド」
「あぁ！？」
「分が悪い。今日は引き揚げるぞ」
「黙ってろ！俺が決着をつけてやる。お前はそこで見学してろ」
「………」
「へえ、やるのか？俺は別にかまわないぜ、二人相手でもな」
「言うじゃねえか！」

　戦闘態勢をとろうとした俺を片手で止めると、キッドは赤い舌でべろりと唇を舐めた。完全に殺る気になってしまったキッドをどうやって止めたらいいのか、俺は知らない。トラファルガーは「そうでなくっちゃな」と笑って見せると、こちらも腰を低く落として刀の柄に手をかけた。こちらはほぼ初対面だから、やはりどうやって制止したらいいのか、俺は知らない。
　とりあえず俺は近くの木箱に腰をおろすと、真っ青な空を見上げて暇を潰すことにした。滑らかな白い雲が、地上での凄まじい争いとは全く正反対に、ゆったりと流れていった。